誰しもいろいろな理由でうつ的になることがあると思います。自分も2年前にそのような状態になりましたが、般若心経一万回唱えることを目標にして見事に元気を回復しました。そんな経験を書いてみたいと思います。
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思いこみと条件付けが、私たちを小さな肉体のなかに閉じこめているとこの間書いたが、般若心経は、そうした思いこみをボタンを一つづつ外していることに気がついた。

 観自在菩薩とは、原子や素粒子のように微細なものから、宇宙のように広大なものまで、自由自在に見ることができる意識の状態に達した人という意味だろう。そうした見方で、この世を観察した時に、まず、生じるということがないし、滅するということもないと一番根本のボタンを外している。

これは、言い換えれば、「生まれるということも無ければ、死ぬということもない」という意味だろう。生まれることは、ともかく「死」や人類の「破滅、消滅」ということは、いつの時代にも一番気に掛かることだ。「死」はだれも避けることはできないし、この問題を解決せずに逃げていると、いつも心のどこかに恐怖がある。また、最近は、2012年で何かがおきて人類が淘汰されるという説がもてはやされているが、滅することのない世の中ならば、不安や恐れをいだく必要もない。

 そして、具体的に一つ一つ思いこみのボタンをはずし、解放してゆく。不垢不浄、本質において、汚れるというこもなければ、清まるということもない。自分は、汚れていると思いこんでいる人にとっては、この言葉は随分救いになるのではないだろうか。この思いこみを取り去るために、滝に打たれたりするのかもしれない。

 不増不減、増えると言うこともなければ、減るということもない。株価が上がったらと言って喜び、下がったからといって悲しむ、体重が増えたと言って悲しみ、体重が減ったと言って喜ぶ。これらは、シーソーの端に意識の重点を置いているからで、増える減るという思いこみのボタンを外し、シーソーの中心に意識の焦点をあわせれば、増えることも減ることもない、深い喜びのなかにいることができる。

 そして、さらに具体的に細かく思いこみのボタンを外して行く。このお経を唱えることは、何度も何度も身にしみて、自分の思いこみを解除して、解放され自由になってゆくことだ。
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【2009/05/31 13:29】 | 心と身体
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