誰しもいろいろな理由でうつ的になることがあると思います。自分も2年前にそのような状態になりましたが、般若心経一万回唱えることを目標にして見事に元気を回復しました。そんな経験を書いてみたいと思います。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

mumyou
 般若心経を読み進めてみよう。

無無明、亦無明尽。乃至無老死、亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。

「空」の世界においては、無明ということも無明がなくなるということもないという。現実の世界には無明がある。無明とは何かというとwikipediaでこのように説明されていたあまりに見事なので以下引用してみよう。

無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性(ほっしょう)に対する言葉である。

仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。この苦しみを消滅する方法は、初期経典には定型文句として四諦、八正道であると説かれている。この四諦、八正道を知らないことも無明である。

たとえば、闇(やみ)について、多くの人は「闇は存在する」と漠然と考えている。しかし、闇に光が当たると、闇はたちまち消えうせる。闇がどこか別のところに移動したわけではない。つまり、闇は始めから存在しなかったということである。闇は「光の欠如」ということであって、闇と呼ばれる「なにか」が存在するわけではない。精神的な「苦しみ」についても、同じようにとらえることができる。智慧の光によって、苦しみはたちまち姿を消す。苦しみが、何か実体を伴って存在しているわけではない。 実際には無いものを有ると考えるのは無明である。

 最後の闇の説明は、なるほどと納得させられる。「実際には、無いものを有る」と考えるのが、「無明」であるという説明は実にわかりやすい。我というものが存在するという見解が無明であるという。すべては、一つと考えれば、我というものは、存在しない。「青い海」の気功でしだいに青い海に意識がとけてゆく時、しだいに私という想いも消えて流れ去ってゆく。そして、私と供に、その悲しみ、苦しみも溶けて消えて行く。後には、ただ自由にゆったりと海のようにたゆたう純粋な意識があるだけだ。

 私という意識が消えた世界では、無明がなくなるということも、それが尽きるということもなく。老いて死ぬということもそれが尽きるといこともなく。人生は苦しみだということもなく、その苦の原因の執着で苦しむこともなく、執着がないので悟るということもなく、その方法である仏道をすでに必要としていない。すでに智慧の光で照らす必要もない。
スポンサーサイト

【2009/06/07 22:44】 | 心と身体
トラックバック(0) |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。