誰しもいろいろな理由でうつ的になることがあると思います。自分も2年前にそのような状態になりましたが、般若心経一万回唱えることを目標にして見事に元気を回復しました。そんな経験を書いてみたいと思います。
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gazou 1701
 最近集中的にすきのポーズとブリッジを行っている。脳の中心、間脳を刺激するのが狙いだが、肩の周りがとても楽になるという思いも寄らない効果があった。肩周りが楽になると、非常に身体が軽くなってくる。

 人間、労働や加齢で、疲れがたまってくると自然と肩が、前に出て猫背になってくる。そうした状態は、心臓を圧迫し、内臓の気血の運行が悪くなり、健康にもよくない。精神的もそうした姿勢では、落ち込んできてしまう。逆に落ち込んでいる時は、自然と肩が前にでて猫背になっているといえるだろう。

 従って、まずは姿勢から、治してゆけば自然と心の状態も明るく改善してくるといえるだろう。
心と身体に問題のある方は、ぜひ、一度お試しください。

 詳しくは、薬師堂に気軽にお尋ねください。左のリンクからHPに入れます。
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【2009/06/30 16:45】 | 心と身体
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suiren
今週の気功教室である生徒さんが、旦那さんといかに馬が合わないかということを話していた。本人は冷房がきらいだが、旦那さんは、冷房をガンガン効かせないと眠れないとか旦那さんは肉ばかり食べるが、生徒さんは脂っこい者が苦手で、要するにすべてが正反対だということだ。ちょうどその隣の生徒さんも同じようなことをいつもこぼしているので、お互い慰め合う友達ができたようでほっとしていたのではないだろうか。

 「幸せだな。僕は君といる時が一番幸せなんだ、死ぬまで君を離さないぞ。」なんて歌がありますが、どうやら幸せな時は短く、幸せなのは本人だけで相手は辛いだけの時期のが長いのかもしれませんね。結婚する時に、「君を幸せにします」なんて言ったとしてもそれは、無理な話です。幸せとは、「する」ものではなく「幸せである」という状態だからです。

 気功で入静状態に入った時は、間脳から快感物質がでて、全てを忘れて実に幸せな状態になります。喜びそのものに包まれた状態です。結局、人は、人を幸せにすることもされることもできません。ただ、いつでも幸せであることはできるのです。しかも、その幸せは、外部のものに依存していないので失われることもないのです。

 そんな幸せの喜びを薬師堂で見つけてみてはいかがですか。

【2009/06/26 22:49】 | 心と身体
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mumyou
 般若心経を読み進めてみよう。

無無明、亦無明尽。乃至無老死、亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。

「空」の世界においては、無明ということも無明がなくなるということもないという。現実の世界には無明がある。無明とは何かというとwikipediaでこのように説明されていたあまりに見事なので以下引用してみよう。

無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性(ほっしょう)に対する言葉である。

仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。この苦しみを消滅する方法は、初期経典には定型文句として四諦、八正道であると説かれている。この四諦、八正道を知らないことも無明である。

たとえば、闇(やみ)について、多くの人は「闇は存在する」と漠然と考えている。しかし、闇に光が当たると、闇はたちまち消えうせる。闇がどこか別のところに移動したわけではない。つまり、闇は始めから存在しなかったということである。闇は「光の欠如」ということであって、闇と呼ばれる「なにか」が存在するわけではない。精神的な「苦しみ」についても、同じようにとらえることができる。智慧の光によって、苦しみはたちまち姿を消す。苦しみが、何か実体を伴って存在しているわけではない。 実際には無いものを有ると考えるのは無明である。

 最後の闇の説明は、なるほどと納得させられる。「実際には、無いものを有る」と考えるのが、「無明」であるという説明は実にわかりやすい。我というものが存在するという見解が無明であるという。すべては、一つと考えれば、我というものは、存在しない。「青い海」の気功でしだいに青い海に意識がとけてゆく時、しだいに私という想いも消えて流れ去ってゆく。そして、私と供に、その悲しみ、苦しみも溶けて消えて行く。後には、ただ自由にゆったりと海のようにたゆたう純粋な意識があるだけだ。

 私という意識が消えた世界では、無明がなくなるということも、それが尽きるということもなく。老いて死ぬということもそれが尽きるといこともなく。人生は苦しみだということもなく、その苦の原因の執着で苦しむこともなく、執着がないので悟るということもなく、その方法である仏道をすでに必要としていない。すでに智慧の光で照らす必要もない。

【2009/06/07 22:44】 | 心と身体
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 気功教室でヨガの最後に正座した状態で身体を前に倒し、頭頂部を床に着けて腰をあげてうなじを伸ばす。うなじ伸ばすことで、脳を延髄からひっぱるような形となり、間脳が刺激されて、その後正座すると実に気持ちがいい状態となる。ヨガを取り入れているのは、脳脊髄を伸展して最後にこの間脳に刺激をいれるてめだ。自律神経とホルモンの中枢である間脳の活性化は、脳内快感物質の分泌を促し、とても気持ちの状態になるだけでなく、自律神経のとホルモンの調整によって、全身の健康がもたらされる。

 しばらくそのまま目を閉じて、かるく瞑想してもらった後に、生徒さんに感想を聞いてみると、大概の人はたいへん気持ちがいいと答えてくれる。なかに「周りの音がまったく聞こえなかった」というほど深く入って生徒さんがいた。

 般若心経で、是虚空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界とあるが、これは深い瞑想状態に入った時には、思考とそれを認識する働きが停止し、感覚が遮断され、色も音も香りも触覚のなくなるということを表している。

 無色無受想行識は、五うんのことで色は、物質、肉体に受は感受作用、想は、想念、行は、意思、識は、認識に対応している。眼耳鼻舌身意は、六根と言って感覚器官を、色声香味触法は六境といって、それに対応した感覚の対象を、無眼界乃至無意識界は、六式といって、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識とそれぞれに対応した知覚作用を表している。

 要するに「空」の状態とは、脳の中心部に血液と意識が集まった状態で、思考や知覚作用が停止し、外界から切り離された状態といえる。また、その状態は、脳から快感物質が放出されとても気持ちが良い状態でもある。

 本来の自分自身が、こうした気持ちの良い状態であるということを般若心経は説いていると説明するととてもわかりやすく。入りやすいと思う。この説明の後にある生徒さんに感想をきたら、私も覚えてみようと思うと言ってくれた。言っていることをわかって受け入れていることがわかってうれしかった。

 また、ある生徒さんは、最近、仲の良かった妹さんを亡くしてショックを受けていたのだが、墓石に「空」という文字が書いてある意味がわかったと喜んでくれた。また、気功教室に通うようになって、ぐっすり朝まで眠れるようになったという。

 般若心経は、昔から日本人になじみ深いお経だが、「空」ということも実は、身近で役に立つ世界なのです。薬師堂では、気功やヨガを通してそれを簡単に実感することができます。すべての人が、自分の思いこみの世界から解放されて自由で気持ちの良い世界を体感することを願います。

【2009/06/05 10:53】 | 心と身体
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