誰しもいろいろな理由でうつ的になることがあると思います。自分も2年前にそのような状態になりましたが、般若心経一万回唱えることを目標にして見事に元気を回復しました。そんな経験を書いてみたいと思います。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

仏2


再び引用してみよう。

パパジ:ここに誰か仏教徒でこの言葉についてよく知っている人がいるかね。

質問者:「真如」という言葉に加えて、仏陀は彼自身を表すために「彼方へと超えた者」(タターガタ Tathagata)という言葉も用いました。

パパジ:そうだ。その両方の意味を私は聞いたことがある。私はパーリー語を知らないため、これらの言葉に確かな注釈をつけることはできないが、「このように来るが」私の聞いたこの言葉のもう一つの訳語だ。それは「この瞬間」「この存在」を示している。

 仏教徒は、「往けり往けり、彼岸に往けり」と言う。あなたは彼岸に往く、だが彼岸おも超えて行くのだ。それからあなたは、彼岸の彼方へと超えて行く。彼岸へと向かっている間は、あなたはまだ、二元性のなかに、まだ心の中にいる。方向や目的地について熟考することはできる。だが、心を終焉させるには、あなたは心の定めた目的地のさらなる「彼方の彼方へ」と超えていかなければならないのだ。

 心が消え去った瞬間を示すもう一つの言葉がある。それは心が形のない彼方に消え去った後に続く「スヴァーハーswaha!」という感嘆句だ。私はこの言葉について多くの人に尋ねたが、一度も満足のいく答えを得られなかった。これが心が消えてゆく瞬間の最後の言葉、あるいは実際に心が消え去った後の言葉だ。それはなんの特定の意味を持たない。心にはその瞬間を理解し描写することができない。それゆえ、その場所から現れる言葉に、心が理解できるような意味を与えることはできないのだ。

 覚醒の後言葉がある。その場所で私たちは何にしがみつけるというのだろう。智慧、悟り、解放、自由にしがみつけるというのだろうか。そこではこれらの言葉さえ役にたたない。ここではすべてが終わる。サンサーラもニルバーナも消え去った。それらは相互に関係しあって存在していたのだ。心は終わり、顕現は終わり、創造者は終わり、創造も終わった。「内に宿る」者は完全に消え去った。これが心から、終わりのない輪廻転生から、顕現からの完全な解放だ。それは一瞬にして起こる。

 ギャーテー、ギャーテー、ハーラー、ギャーテー、ハラソー、ガヤーテー、ボジーソワカー、
と日本語では、唱えている般若心経の真言には、こんな意味があったということがはじめてわかりました。プンジャジがいうと真理は実に簡単明瞭です。般若心経の解説書は最近たくさんでていますが、ここまで簡潔にその意味を説いた本はないように思います。それは、彼が自分の言葉で自分の体験から語ってくれているからでしょう。
 もうすぐ一万回ですので、この言葉をかみしめながら唱えて行きたいと思います。
スポンサーサイト

【2008/04/27 23:01】 | 心と身体
トラックバック(0) |
仏

プンジャジの「覚醒の炎」を読んでいたら、般若心経のことががでてきた。ちょど般若心経を唱え続けて一万回に近づいているので、完全に本とシンクロしているようだ。真我がしだいに近づいてきているのかもしれない。

 「感覚はいつも過去のできごとにしがみついている。心はその感覚を通してあなたを過去へと連れ戻す。あなたが見るものはすべて心の創造物であり、心は常に過去のなかにある。時間の存在しない現在の瞬間には、心は存在しない。心がどこから現れるのかを見いだしなさい。

そして、それがその場所に消え去るのを見守りなさい。そうすればあなたは時間もその場所に消え去ることを発見するだろう。心の消滅は、あなたが心配しなければならないようなものではない。あなたはそれなしでも充分生きていけるのだ。私が語るその場所には「心」という言葉も他の言葉も存在しない。あなた自身に語るために言葉はいらない。

言葉が現れると、それはあなとを真我から連れ去ってしまう。言葉は、常にあなた自身の沈黙にとっての、障害、障壁、弊害なのだ。あなたが真の我が屋で楽しんでいる時、それを描写するための言葉は入り込まない。沈黙は、言葉や時間に遮られることのない絶えざる流れだからだ。

 これが超越の場だ。それについて語るものは誰もいない。それを描写するために言葉は当てはまらない。仏教徒にはそれを指し示す良い言葉がある。「タタターtathata」という言葉を聞いたことがあるだろうか。ふつう、それは「真如」(あるがまま)と翻訳される。それはただそうであるものなのだ。もし言葉をもちいなければならないなら、このような言葉をもちいるがいい。あなたの心にあたらしい概念を吹き込まなもの。根底にある真理をただ指し示す、あるいはほのめかすだけのものだ。」

 「時間の存在しない現在の瞬間には、心は存在しない」この言葉は、おおいにヒントになりそうだ。今というこの瞬間は、時間から解放されていたのかもしれない。時計を意識することが「時間」を生んでいたといことだろうか。この言葉をマントラのように唱えるといかもしれない。「真如」という言葉も「あるがまま」と訳されると実にわかりやすい。自然に身体に入ってくる。この言葉をウィキペディアで調べたら実にわかりにくかった。すでに概念化されてしまったいたからだろう。真理は、シンプルでわかりやすいものだ。概念化された言葉は、凍った水のようなもので、自然に身体に流れこんできてくれない。だから、プンジャジのように実際に体験した聖者の言葉必要なのだろう。

 この続きは、また、次回に!

【2008/04/26 21:43】 | 心と身体
トラックバック(0) |
 般若心経も9300回を超えました。もうすぐ一万回に到達します。般若心経を唱えていて良いのは、その間は、日常的なことを忘れることができるということでしょうか。そして、脳の中心から快感物質がでるのか気持ちよくなってきます。その喜びは、世間一般の喜びとちがって、外にある物や人に依存することもなく自分自身の内側から、わき上がるよろこびです。それは、力強い絶対的な喜びといえるでしょう。

 このブログを書いているのも、そうした喜びをできるだけたくさんの人と共有したいと思うからです。

 本当につらい時は、薬や医師やあるいは聖者など誰かに依存して、その苦境を救ってもらうというこも必要ですが、ある程度落ち着いてきたら、般若心経を唱えてみるのも一つの方法かと思います。

 このことに関連して、プンジャジはこんなことを言っています。

「苦しみは過去の問題、人生で体験したショックは出来事が源因となっている。人々は、その問題を解決するために、宗教関係のセンターヨーガ・センター、セラピー・センターなどあらゆるところを訪れる。それが私が西洋で見てきたことだ。誰もが関係性の破局などから生じた問題を解決しようとセンターからセンターへと渡り歩いている。だが、彼らは、間違った方向を見ているのだ。自由、解放、苦しみの終焉をセラピーの類に見いだすことはできない。だからこそ私は自由への想いを呼び起こすことは、実に希なことだと言うのだ。それは、本当に希なことだ。そのようなセンターにゆく人は問題から逃げ出しているだけだ。彼らは、普段とは違う身なりをしてヨーガや瞑想をすることで逃避している。彼らは、なにかの問題を解決するためにきているだけだ。誰は「私は自由を達成したい」というのものはいない。自由を求める人は本当に希だ。実に希なことなのだ。

・・・・・そうだ、すべては間違った自己同一化から起こる。苦しみは不運、過去の誤りから起こるとも言えるだろう。だが、主要な原因は身体とその感覚との自己同一化にある。人々が犯す主な過ちは、感覚器官を通して幸福を見いだそうとすることにある。ひとたびこの過ちを犯せば、あなたは一つの関係性から別の関係性へ苦しみ続けるだけだ。このような状態にある人はじばしば深刻な問題に巻き込まれる。

・・・・・人々は深刻な問題に巻き込まれ、どう対処していいかわからずいる。私はそのよな人をたくさん知っている。一人や二人ではない。彼らは、アーシュラムやセンターを訪れてみたもののなんの改善も見られなかった。真の変化は、幸福や愛が外側の物事とのやりとりから生じることはないと真に理解することで起こるのだ。」

 真に理解するには、どうすればいいのか。それが問題ですが、般若心経を繰り返し繰り返し唱え続けることが、もっとも簡単で深く自分の潜在意識に入る優れた方法だと思います。

【2008/04/22 09:50】 | 心と身体
トラックバック(0) |
 ラマナ・マハラシというインド人の聖者のお弟子さんで、プンジャジという人の「覚醒の炎」という本にこんな話がある。以下、要約をして引用してみたいと思います。

 ある王が隣国が彼らの領地に侵攻してきたために、大きな戦争をして凱旋したところに彼の師が訪ねて来た。王が師を招き入れて自分の席を譲った時に戦の疲れで一瞬眠ってしまった。その一瞬の間に王は夢をみた。その夢のなかで王は乞食となり何年も物乞いをしている老人だった。

 そこで王は、師にたいして、夢のなかの乞食としての自分と王としての自分のいったいどちらが、現実なのかと尋ねた。それに対して師は答えた。

「どちらも現実なのだ。・・・・そして、今あなたは「私は夢から覚めて現実に戻った」と考えている。だが、あなたがいる非常に現実味を帯びた状態もやはり夢でしかない。それでも、そらが続く間は、それが現実のように見える。だが、いつかあなたはこの夢から目覚めるのだ。」と。

 
 王はうたた寝をして、70年間を乞食として苦しんだ。そして、それから目を覚ました。その人生は一瞬のうちに起きた。あなたが真我に目覚める時、三千五百万年の間に誕生に誕生を重ね、その度に際限のない苦しみを味わってきた転生のすべても、やはり一瞬の夢でしかなかったことを知るのだ。「これは、みな夢だった。輪廻転生もみな夢だった。」と。
 賢者はこれを知っている。だが無知な心はなにも知らない。そえでも無知が取り除かれれば智慧はそこにある。智慧がすべてをぬぐい去り、乞食の状態はあたかも一度も存在したかったように消え去るのだ。これがすべての人にとっての最終的な運命なのだ。遅かれ早かれだれもが目を覚ます。

 今、どんなに苦しくて悲しくても、所詮、それが夢だと思うことができれば、その苦しみや悲しみから抜け出すことができる。三千五百万年でさえ、夢のように過ぎ去ってしまうのだから、今生の苦しみなんてごくわずかなな期間なのかもしれません。
 そう思って繰り返し繰り返し、般若心経を唱えていれば、しだい身も心も軽くなってきて、いつしか悩みそのものを忘れてしまいます。

【2008/04/16 16:56】 | 心と身体
トラックバック(0) |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。